夜中のひと匙

難病と双極性障害Ⅰ型のアラサー。死にかけてICUに収容されるも、しぶとく生き残る。30代で母を亡くし独りになる。拍手を暫定復活しました。お返事できるとは限りません、ご了承ください。

わたしがしたいことって何?

あけましておめでとうございます。

本年もこの愚痴ブログをどうぞよろしくお願い致します。

年末から精神状態が悪くなりまして、もともと長めの鬱がきていたのでそのうち上がるだろうなとは思っていたのですが、少し上がってきてイライラが芽生えてきた頃に前回記事で書いたお見合い話がありまして、それをきっかけに爆発躁転したという感じです。

先月の長い鬱も久しぶりでしたが、爆発する怒りの躁状態も久しぶりでした。いま現在は怒りから抜けてまた鬱に戻っているんですけど(食欲全くなし食べてない、気力なし)、いやーひさびさに爆発しましたね。やばかった。常に舌打ちしてて何かにつけ心の中で怒鳴ってる感じで、何年ぶりかに襖に穴が空きました。終わってるわたし。

同時にぎっくり腰になり、また発熱したかと思えば耳の前の頬の部分が神経痛のように傷んで傷んで、呪われてるのかという年末年始でした。

いまの主治医に変わる前は治療がうまくいっていなかったこともあってよく躁転していたんですけど、転院してからは多少の波はあっても(本当に多少かどうかは知らん)一般人を装えるくらいには落ち着いていたので、先月からの長い鬱はちょっとどうしたのかなという感じではあったのですけど、季節的なものでしょうかね。おっかしいなあ、服薬してるんですけどねえ。とりあえずいま全然食べたくなくて、薬を飲むためにこんにゃくゼリー1個食べるとかそんな食事です。まあデブってるから平気。

今年の抱負。というほどのものでもないけど。

たぶん母親との関係に問題がある育ち方をしたせいかと思うんですが、わたしは他人と接するときに、相手が望むこと、相手がしたいこと、相手の気分がよくなるように振る舞うという癖がついていて、相手と向かい合ったとき、自分というものがなくなってしまうんです。例えば相手が落語が好きだったとします、そしたらわたしも持ってる知識を総動員して落語の話をして、寄席に誘われれば「うれしー!」って行って、あそこがよかったここがよかった、でCD買っちゃったりするんです。本当は全然好きじゃないんですよ、興味もないんです。落語はあくまで例なのであしからずですが。

とにかく相手の気分を良くして、相手が望むように、相手の役に立てるように。そのとき「わたし」というものはもう100%「相手」なんです。そのことにその最中は自分も気づいていなくて、自分もそういえばわたし落語大好きだった!みたいな感覚がある。

でもそうして気づいたら自分の周りが洒落にならないくらい落語関係に囲まれていて、あれ?って、わたし何してるんだろう、落語なんてわたし好きじゃないよね……と我に返るんです。「本当のわたし」はどこにいるのか、何が好きなのか、分からなくなる。そして自分の時間を「相手が好きなもの」に使って、自分のために使えない。

今年の抱負じゃないですけど、自分のそういう面に気づけたので、今年は、「自分がしたいこと、自分が望むこと」をしたい。自分のために時間を使いたい。

わたしの労力をあてこんで何かをしようとする人たちの申し出を断りたい。

可哀相だとでも思ってるのか

お見合いですよ。

お見合い。

ちょっとフィクション入れますが、お見合いの話が来まして。

わたくしご存知アラサーなんですけど、お相手の方は

還暦

近いとのことで、わたしの人付き合いはまあ基本的に相手優先で、相手の希望通りになるように、後で自分が我慢すればいいやっていうタイプですが、いくらなんでも還暦の人と結婚させられちゃたまんないですよ。客観的に見て、還暦男がアラサー女を相手にするのはわりといい条件かと思うんですが、反対に女性から見て、何かメリットあります?ただでさえ親の耳が遠いだの加齢臭だの老眼だの生理現象だので嫌んなってるのに、還暦男と新婚家庭つくれって、ばっかじゃないの。父親とほとんど年変わらないんですよ。

もちろん断ったんですが、ちょっとその話を持ってくる人の神経を疑いましたね。バカにしてますよね。そのくらいが釣り合いとれてるとでも言うんですかね。

(一部削除)

ああ、年の瀬にいろんな問題ぶっこまないで!!

老眼になったらショック大きいだろうなあ

鬱がきてまして。十日以上鬱。抜けて浮上した。と思ったらまた鬱。そして苛々する。だめだこれ。

もうすぐアンドロイドに機種変して2年経つんですが、特に壊れてるわけでもないのでそのまま使おうかなあ。アンドロイドを使ってる後輩がすんごくケータイを壊す人で、友人らも修理に出してたので、わたしもiPhoneから移る時に覚悟してたんですが壊れませんねえ。機械なので当たり外れがあると思うんですが、ガラケー時代から一度も修理に出したことのないわたしからすると、壊しまくる人は手から何かが出てるんじゃないかと思ってしまう。それともわたしの手から何かが……?

何かに対する愚痴とか文句とかそんなことばかりを書いているこのブログですが、今回も愚痴りますよ。

「離婚して子供を引き取らなかった側の親は、その後どこまで子供と関わるべきか」という話。触れると厄介で繊細な分野ですが、一応子供側の当事者としてわたしの浅い見識もアホな主張も右から左に流して頂ければと思います。

理想としては、夫婦関係は消滅しても親子としては変わらない距離と関係と責任を維持するべきだとわたしは思います。夫婦は離婚して他人になったかもしれないけど、母と子、父と子は何も変わらない関係であってほしい。いつでも連絡できて、いつでも会えるようにするべきだと思う。引き取らなかった側の親はこまめに子供に連絡してあげてほしい。そしてそれに嫌な顔をしないでほしい、引き取った側の親は。暴力や虐待があって離婚した場合は違いますよ、当たり前ですけど。

そして子供に「あの結婚は失敗(間違い)だった」と言わないでほしい。結婚が失敗だったのなら、生まれた子供は存在が宙ぶらりんになってしまう。なぜ生まれたのか。結婚そのものを無かったことにしたいなら、そこまで巻き戻したいなら、子供は生まれないことになるけど、それでも巻き戻したいということなんだろうか。生まれてしまって生きている自分は消えるわけにいかないし、どうしたらいいのだろうか。円満な夫婦のもとに生まれた子供と比べて、自分には生命の価値が無いように思える。間違って生まれてきた存在に思える。

親としての責任は離婚することで消えるわけじゃないから、すっきり人生やり直し、みたいな感覚はおかしいと思います。

でも世間的にも、離婚して引き取らなかった側の親はもう他人というふうにみなしてるみたいですね。わたしが危篤でICUに入った時、母が父に電話したそうなんですが(我が家は幼少期に別れたわけではなく、わたしが成人するまで離婚しませんでした)、父は会いに来なかったです。それを当時の親友にグチったら、元親友(仲良し夫婦の両親がいる)は「でも離婚した親ってそういうものじゃない?」ってあっさり言ったんですよね。だから、あぁ世間的にはそうなのかっていう納得と、わたしが求め過ぎなのかなっていうのと、お前に言われたくねえよっていう。彼女はよく「結婚しようとは思わないな〜離婚が多いじゃない、ほら杏紗のとこも親が離婚してるし、○○ちゃんのとこも離婚してるし」って友人の両親を引きあいに出してく

る無神経な人でした。

幸せな人は無神経ですよね。

これが言いたかったのかも。

幸せな人は無神経です。でも、卑屈じゃないし歪んでないから明るくてあっさりした良い人だと言われたり愛されたりするんですよ。楽しそうでいいね。幸せで何よりですわ。もう勝手にして。

不思議なコミュニケーションの人っていますよね。

「○、△、□、☆、◇日は都合いいから会いに行けるよ、だめな日あったら教えて」

「いつでもいい!」

「じゃあ☆日に行くね」

「うんでも☆日は旅行中かも(笑)」

「…………」

よく分かんないんですよねえ。

複数人の予定と行き先を調整するのがすごく下手くそな人もいますよね。これって数学的な思考ができないからなのかなと思いますけど。>と≥の違いを考慮できないというか。頭の中でベン図が書けないというか。A∩Bができないというか。やっぱり数学の勉強も必要ですよ、生きていくのに。

またグチグチ言ってしまった。

母親の言葉遣いがだんだん悪くなるんですけど、老化現象なんですかね?

もともと言葉だけはきれいな人だったんですけど、今や「うめえぞこれ」「やべえな」「メシ食う」「すげえ」「ジジイ、ババア」ですからね。食事もテーブルに肘ついて、箸で皿を引き寄せたりするので外食するのが恥ずかしいです。あと独り言がすごいです。見えない誰かと会話してる系ではないんですが、自分の行動を全部言うんですよね。「キャベツ切ってーキャベツ切ってーキャベツ切ってーにんじんーあーにんじん出してないーにんじん洗うー皮をむきますーむきますーフライパン出してーあっ出てたーおたまおたま、あーおたまも古い、買わなきゃねー」って料理中はずっと言ってます。買い物してる時も内心の呟きが全部口に出てるので、ひたすら独りで喋りながら物色してる人になってて、危ない人にしか見えないとい

う……「だからこういうセーターばっかりじゃなくて、こういう色のカーディガンを探してるのにこんな真っ赤なのしかないんだから困るわ」とか言ってるわけです。

親が老化していくの怖い。

うちは施設に入るようなお金もないし、わたしは兄弟もいないので、もし母親がどうかしたらわたしが面倒を見なければならないですが、正直いって、自分の病気で手一杯なので、できるかどうか……

でもまだ母はいいですよ。娘がいますから。

わたしどうなるんでしょうね。結婚もできず、子供もいませんし、お金なんか稼げるわけもなく。

将来のこと考えると怖いですね。考えても今、何もできないし、目先のことだけ見て生きるしかないなあ。

難病の話と何様そうですわたし様!の話

難病のほうがなんかよくないんですよねえ。

きちんと服薬しているのに、検査すると数値が出てこないという。十分な量を飲んでるのに、値が低い。複数の薬を飲んでいますが、別のは別ので、高い値の時と低い値の時の差が大きすぎる。

一年ほど前から起こり始めた体調不良も、もしかしたら薬の不安定さから○○不全を起こしている可能性もあるけど、どうだろうなあと、結局はっきりしなくて、とりあえず薬は増量。

この2年くらいで、身体がどんどん弱くなってる気がする。

これじゃ将来の見通しが立たない。

回復力がないのかなあ。何日経ってもだるくて疲れてて微熱があって……

あーあ。

愚痴なんですけど、団塊の世代の思考って本当に理解できないという話。

先日母親が、通っているクリニックの待合室にいたところ、風邪と思われる患者さんたちで非常に混んでいて、なかなか呼ばれない。まわりはゴホゴホ咳込んでいて、マスクをしていない母親は、ここにいたら伝染りそう……と思いながら座っていたそうで、帰宅後わたしに言ったのが、

「ほんっと気がきかないよねぇ。ああいう時はさ、看護師でも受付でもいいから、そっとマスクを持ってきて『大丈夫?どうぞこれして下さい』って言うくらいできないのかねえ。本当に気がきかないわ。」

という主張でした。あえて何も言いません。

次。

母親の知人が先日、よく行くクリニックに行き、診察ついでにインフルエンザのワクチンも打ってちょうだいと言ったら、「ただいま在庫がない状態で……」と順番待ちになってしまったそうで、

「そんなのおかしくない?順番待ちだって!」

「テレビでやってるの見たじゃん、今年はワクチンが足りないから困ってるって。早めに予約しないとだめなんだって」

とわたしが言うと、母親は、

「だって常連なのよ?そういう患者さんのためには、言われなくたってあらかじめよけておくくらいのこと、病院って考えられないのかねぇ」

声を大にして、せーの、

ばーーーーーーーーーか。

母親のロジックとか社会システムへの認知とかすべてがぶっ壊れているのであえて指摘はしませんが。

この言葉を送りたい。

論理的に負けたと途中で気づいた時、突然キレて話を終わらせようとするそのごまかしは100%ばれています。余計にかっこ悪いのでやめたほうがいいです。

拍手お返事

11/21にコメントを下さった方。

 

コメントありがとうございます!

実はわたしも以前から、拍手コメントというのは省略しているとはいえメッセージ内容が見えますし、お返事も丸見えなので、匿名という利点があるとはいえ気になる部分もあると思っていました。

お話し頂いた内容についてですが、わたしは全然かまいませんよ!

ただ上記のことがあるので、もしアレでしたら

 

(削除しました)

 

にメールでも大丈夫です。

もちろん拍手からでもかまいませんので、お好きなほうでどうぞ。

他の方も何かあればメール利用して下さい。

 

※1週間以内にお返事できると思いますが、もし全然音沙汰がない場合トラブルの可能性がありますので、拍手からお問い合わせ下さい。

常にcoming soonでちっとも実現しないからまだ夢を見られる

ラノベのタイトル長いブームに乗ってみました(遅い)。

なんかブログを書こうとすると、ある程度長くて中身があって論理的におかしくないものをといつからか思ってしまって、変に書けずにいました。改行をどこでするかの問題に近い。こういうネットの横書き文章はサクサク改行して行間も空けるのが読みやすいと分かってはいるのですが、小学生の国語のように意味のある段落で云々とか考えてしまって、わたしのブログはひたすら改行せず続いていくのですね。漢数字と算用数字も色々ありますけど、そのへんは読みやすいようにと思っています。

いま病院の待合室にいて、あと2時間近くは呼ばれないだろうなと思うので、この記事はきっと投稿できると思います。最後に書きますね、結局待合室から投稿できたかどうかを('_')〜♪

ついったーにちょこっと書いたのですが、ここのところのわたしは浮世の義理でハンドメイドをやっております。小物とかアクセサリーを作って、友人のイベントを手伝っているという感じです。数年前からやっているんですが、精神的に安定しないので計画的に進めることができず、安定したと思って3〜4日作業していると(1日6時間程度、好きな時に休憩)、突然肉体的に具合が悪くなって、熱が出て十日くらい寝込むというパターンを繰り返しています。今も微熱が一週間近くなってきていて、作業は中断しているんですが、なかなか治らないです。難病の薬を飲むと少しラクになるんですが、よほどの時しか増量できないので我慢してます。

一応ボランティアみたいなものなので、経費とかは使えず自腹です(‘-‘)あーこのお金があったら安○ちゃんのアルバム買えた……と思ったりもしますが、やっぱり何かに参加できることは嬉しいし、お子様たちの楽しみに貢献できていると思えば、まあいいかなと思っています。……みたいにステキな気持ちでいられる時もありますが、まあ人間ですから、なんでこんなことをしてるんだろう……という感情の時もたまにはあります。でもトータルすればやっぱり人と繋がれること、小説もそうですが作品を見て喜んでもらえることはとても幸せなことなので、状況が続くかぎり参加していきたいと思っています。

幸せになってはいけない人っているのかなあ。

たとえば犯罪者とか?でもそれはどんな犯罪からアウトで、どこまでがセーフなんだろう。万引きはセーフとかあるのかな。

人を傷つけた人間には幸せになる資格がないとしたら、きっと全ての人類が幸せになれないけど、そこは傷つけた度合いで判断するのかな。

いままでの人生を振り返って、加害者だったことも被害者だったことも、誰しもあると思う。

それとも、生きている人間は全て、幸せになっていいのかな。

そういうのって誰が決めるのかなあ。

「幸せになっていい」というのは、ある意味「許される」ことだと思う。誰から許されるのか?被害者から?自分自身から?それとも神みたいなすべてを裁く存在から?

子持ちの友人(帰国子女、日本語80%くらい)が色々と悩んで出した結論を教えてくれたんですが、「自分の人生にあるのは来る、でもないのはない(原文ママ)」だそうで、聞いた瞬間なんか素直に受け入れられました。友人が言いたいのは「自分の人生に用意されているものは遅くなってもいずれ手に入るけど、用意されていないものはどうやっても手に入らない」ということだと思います。わたしも、きっとそうなんだろうなと思います。

『諦めるための言い訳』『努力しない奴の負け惜しみ』と思う人もいるかもしれません。でもどう頑張っても手に入らないものはあるし、人との関係には縁が存在すると思うし、その人がどういう範囲で生きる人間かっていうことも、ある程度は決まってるんじゃないかと思います。もちろん努力とか意志で変えられる部分はたくさんあって、でも根本的な、その人が生きている意味みたいなものは、変わらないような気がしています。

矛盾するようだけど、「絶対に夢は叶う」という言葉を、若い時は信じるべきだと思う。

十代なんて巨大ビルのトイレの個室にいるようなものだと思うんですよ。狭い個室の中は何もない。そこで信じた方向に向かってドアを開けるなり破るなり壁をよじ登るなりして廊下に出たら、何階に行くのかどの部屋に入るのか、屋上に行くのもビル自体を出ていくのも選べる。その時に、自分の選択と能力とその先の人生を信じられるから、夢を見られるんだと思う。それはすごく貴重な力だと思います。

もう三十代になって、意識しないうちに自分の人生の範囲が決まってきたように感じて、人生の数多あるジャンルの中の、わたしはこのパターンかあという感覚になりました。目指してここに来たわけじゃないけど、自然に流れたらこういう現状になって、それにはこれまでに知り合った人たちから紹介されたものや頼まれたことや経験したことが積み重なって、一般的なルートとは違うけど、わたしの人生ってこういう感じかなといまは思えています。理想はありますよ、夢みたいな理想の人生、そこではわたしアホみたいに幸せなんですけど、しょうがないですもんねえ。

病気が無ければ確実に違うと思います。通院や服薬の縛りがなければ日本中どこにでも行けるし、外国に住むこともできる。

でも不思議なことに、病気の無い自分は想像できないんですよね。

現在のわたしの考え方とか倫理や規範は、入院とか手術とか深夜のナースステーションでのやりとりとか、死ぬとか生き残るとか、そういうものから出来上がっているので、それを無くしたらもう別人ですよね。

なんというか「しょうがない」って良い言葉だと思いますよ。だいたいの事は「しょうがない」で諦めていける。人生しょうがないことばっかりで、たまにしょうがなくないから、なんとかやっていくんだと思う。

さて最後に「待合室で投稿できたのか?」の答えですが、「深夜二時、布団の中から投稿」が正解でした。珍しいことにあれからすぐ呼ばれまして、結局帰宅してポチポチ書き、いま投稿するところです。

難病のことは診察で色々あったのでまた別の記事で書きたいと思います。

拍手お返事

お待たせしました、拍手お返事です。

10/16の方。

>〜お互い会うことも直接話すこともない赤の他人同士ですが〜

>今までで一番共感した記事は去年書かれた「境界線の内側の優しさ」〜

〜とある作品〜作者のメッセージに心底感銘を受け〜否定せず、絶望感に対する一種の答えを出してくれたのが〜

>ですが、ネットで他の方の感想を読んでみたら罵詈雑言の嵐〜

〜その人達は私と違いその世界を必要としてない〜私が味わったような絶望を経験したことがなく〜理解できなくて嬉々として批判している人達はそれこそ杏紗さんが日記に書かれたような人達だから〜

◇◇◇◇◇◇◇

コメントありがとうございます。遅くなってしまってすみません!

真剣な言葉の一つ一つをじっくりと読ませて頂きました。

そうですね、確かにわたしたちは会うことも直接話すこともない関係です。万一すれ違ってもお互いをお互いだと分からないんですよね。

でもわたしは不定期ながらも生きてる限りブログを続けていくつもりで、それができるのは、こうして読んで下さる方々や、コメントを下さる顔の見えない方々のおかげです。本当に感謝しています。

色々と考えることがあって、それを発信した時に、リアクションを頂けるのは貴重な差し入れみたいなものです。給水ポイントのような存在です。そういう瞬間が、わたしのなかで生きている感覚につながっているような気がします。

「境界線の〜」は、自分なりにせいいっぱい書いた記事でした。

生きている上でどうしようもなく、虚しく苛立つ場面を、溜め込んできた怒りを、文字にして形にしたい、発信したいという強い感情で書きました。

分かります、例えたった一言であっても、こんなに自分の心をうち、求めていることを代弁してくれた作品はないと感じた瞬間の沁みわたるような心の衝撃を、全く理解されない時の呆然とする感じがまさに、「境界線」です。わたしが生きる上で重きを置いている要素が、その人たちには全く理解されない。「は?」くらいの感覚で。全然興味がないし、価値もないし、えーそうは思わないけど?みたいな……。

それは仰っているように、経験していないからなんですよね。それまでの経験によって培われた受信チャンネルを100持っている人と、極端ですが3しか持っていない人がいるんだと思います。でも3は3なりに周囲と共感しあって慰め合ったり盛り上がったりしていて、「幸せって何だろう」とか考えたりしている。

でも彼らの出す答えは100の人から見れば「真に言いたいことを分かっていない、人生に訪れる無常や儚さを知らない、曖昧な中に秘めた激情に気付いていない」と思ったりするわけですよね。

それは確かに選民意識みたいであまりいいものではないですけど、その物語を批判していた人たちも「選民意識」を持っていると思うので、ノーカンということにします。ノーカンってすごい久しぶりに使ったな。

小学校5年の算数をやってる人が、微分積分をやってる高校生に「復習なんかしなくても90点はとれるじゃん、アホじゃね?」って言ってるように、立ってる位置が違うんだから話も通じなければ説明したって分からないんですよね。実際に自分が微分積分をやるところまでいかないと、そんな世界は彼の中にないわけですから、理解できないんですよ。

以前は「わたしの説明が下手だったのかな?」とか考えることもありましたが、そもそも相手はそういう領域に興味もなければ接するつもりもないわけで、お互い徒労に終わるんですよね。

こういう「カバーしている深さ」の違いって決定的ですよね。カレーライスが辛いか甘いかよりよっぽど重大で、水深の違うところに住んでいる二人は芯から交わることはできない。

それを補完していくのは何なのかなあ。

人間はみんな同じ世界、現実に暮らしているのに、それぞれ生きている世界は見えなくて、違うんですね。

>「こんなこと言っても気持ち悪いと思われると〜」とのことでしたが、全然気持ち悪くないですよ、そんな、わたしなんか気持ち悪いことばかり書いて公開しております……^^;

現実ではなかなか真剣すぎたり必死すぎたり劇的だったりして言えないことがあると思いますが、当ブログはいつでも深夜のテンションでお待ちしておりますので、これからもコメントをお願いします!

色々と言って頂けて、なんだか恥ずかしいですが嬉しかったです(^m^)ゲヘヘ

その他の方もぱちぱちありがとうございました!