夜中のひと匙

難病と双極性障害Ⅰ型のアラサー。死にかけてICUに収容されるも、しぶとく生き残る。30代で母を亡くし独りになる。拍手を暫定復活しました。お返事できるとは限りません、ご了承ください。

終末から一歩離れて

たまに行くお店で、店員さんがにこやかに接客していたのに、そのお客が出て行った途端ものすごい悪口と嘲笑が始まって、わたしはまだ店内にいるのに、悪口大会を聞かされてしまうお店がありまして、まあそれについて是非を問いたいのではなく、だんだんとこれはわたしの陰が薄いせいなのか?と思いまして、他のお店でも店員さんに話しかけると「うわっ!」と驚かれたり、過去に家の中でも隣に立って母に話しかけると「ぎゃっ!いたの!?」と心臓に負担をかけていたので、わたしはよほど『気』みたいなものを発していないんじゃないかと思います。暗殺者にぴったり。

多分ですが、物音を立てないからかなと思います。鬱の人は生気がないんだろうなとも思いますが。

母がどんどん悪くなっていった頃、まだ家で生活していましたが、本当にいわゆる『気』が無くなっていました。目の前にいるのに圧力がなくて、そこにいるのに投影された立体映像みたいなんですよね。紙っぺらみたいに感じる。厚みがないというか。

本人に言うわけにいかないし、自分の中で飲み込むのも、まあ、しんどかったですね。

母の病気が発覚し、それが治癒しないと分かってから、辛かったのはテレビで有名人が闘病を告白することでした。同病相憐れむ、とはいかず、病気のことはなるべく忘れて日常生活を送りたいと思っているのに、どの局でも病名を大文字で映していて、それがだいたいは母より軽症で、母には使えない治療について語っていたり、治療で快癒した体験談だったりすると、心から「良かったね!」という気持ちになれるほどわたしは人間ができておらず、ぎりぎりのラインで上にいった人たちを、ラインの下から複雑な気持ちで見ていました。そのラインははっきりといつでも目の前に見えていて、そこを乗り越えられないわたしたちは、下に下に、引っ張られていくわけです。

あの頃、そのラインを乗り越えることを一部の人に可能にする治療法が話題になっており、母にも保険適用されました。わたしたちは母が『一部の人』であることを固く固く信じました。ラインを乗り越えた人が、もう余命を十数年過ぎているのにこんなに元気で、と体験談を語っているのを見るにつけ、うちの母だってそうなるんだ、絶対に、この治療ですべてを覆して、元の生活に戻るんだと、まだまだ母の人生は続いていくし、そしたらいつか行こうと言ってたあそこにも行くしあそこにも行こうよと、元に戻ることは確定していると信じることで、平静を保っていました。

だけど結局、母にその治療は効果がありませんでした。母は病室でぽつりと、

「夢を見ちゃったのかね」

と言いました。わたしは何も言えませんでした。母の病気と余命を決定的に覆せるのはその治療法だけで、それがダメだったのなら、もう、近々母が死ぬことはその時確定したのです。延命はいくらかできるかもしれないけど、でも、もう元のレールには戻れない。

素人だし冷静な判断もできなかったので、間違っている部分もあるかと思います。でもこれがその時の患者と家族の気持ちでした。

神様なんていないと思いました。母は確かにややこしい人間ではあったけど、犯罪をおかしたこともなく、勤勉で、整理整頓と掃除に励み、節約して外食もほとんどせず、若い頃から身寄りもないような状態で、それでも働いて堅実に生きてきた人です。定年退職しても行きたいところも行けず食べたいものも食べられない、貧乏生活で病気の娘を抱えていました。

一度くらい何かが恵まれるんじゃないかと期待して生きてきましたが、何も恵まれませんでした。

病気に関して言えば、母には何の治療も効かなかったです。何もしないほうが良かったです。副作用に苦しんだだけでした。馬鹿みたいです。貴重な残り時間に、意味のない苦しみを追加してしまいました。本当に馬鹿みたいです。

人生はトータルするとプラスマイナス0だとよく言います。でもわたしは、プラスで生まれてプラスのまま死ぬ人もいるし、マイナスで生まれてマイナスのまま終わる人もいると思います。プラスとマイナスの定義も人それぞれだし、他人の人生を勝手に採点するつもりもないけど、人の一生に対してプラマイゼロの救済みたいなものは無いとわたしは思う。ただ、どんな環境だったり出来事だったりがあったとしても、心だけは変えることができるから、目に見えない部分でその人は大きくプラスで終わっているということはあると、信じたいと思います。

緩和病棟というものについて、わたしはよく分かりません。母はそこに入る前に亡くなったからです。

緩和病棟へ移ることを提案するのは、すごく難しいのではないでしょうか。

前述の治療が効いていないと判断されて、主治医は緩和病棟の話ばかりになりました。苦痛をとることにかけてはあちらがプロだし、そっちに移ったことで寿命が延びた人もいるんですよ、と。

主治医が帰って、母は、

「あの先生、もうあたしたちを見捨てたね」

と言いました。主治医の意図はそうじゃなかったと思いますが、ともかく患者はそう感じたということです。積極的な治療を専門とする主治医にはもう打つ手がなく、患者のためには移動したほうがいいと判断したのでしょうが、やっぱり、まだ平均寿命まで遠い患者からすれば、『お前はもう死ぬしかないんだから、あちらに行って』と言われたように感じてしまったのでしょう。

何度も何度も絶望の波が来ます。

ツイッターにも書きましたが『ここに男がいたらよかったのに』と思うことが何度もありました。父親、もしくはわたしの夫。男がいることで患者サイドに重石というか、医療者へ緊張をもたらすのではないかと思ったわけです。つまり、軽んじられている、嫌な言い方をすれば舐められていると感じることが何度かあったわけです。

それがわたしの被害者意識なのか、医療スタッフからすれば笑い飛ばすようなバカバカしい妄想かもしれませんが、とにかくわたしだけじゃだめだと強く感じていました。

一応、母方にも血族はいまして、そちらの対応があんまりにあんまりすぎるということを人が言った時に、わたしは自然と「今お母さんはわたししか見てないと思うから、そんな人たちがどうしたこうしたなんて、どうとも思ってないよ」と口にしていました。一人っ子なのもあるし、ずっとふたりで暮らしてきて、お互いに仕事が無くなってからの数年は、家でもずっと一緒、買い物も出かけるのもずっとふたりでした。わたしたちは母娘であり、かつ一番近くにいる友達だったと思います。わたしはなんだかんだ甘えていたし、母も難しいことはわたしに頼っていたし、母が家の中をきれいにして、ご飯を作って、ふたりでよく動物のテレビを観ていました。テレビは一台しかないし、同じ番組を観ながら文句を言ったり、買い物に行

っては服や化粧品や靴などを、相談しながら買っていました。

今、可愛いな、と思う服があっても、

「ねえこれ見て、可愛くない?」

「あらいいしょ」

「いいよね、2千円だわ」

「買いなそれ、いいわ」

と母と相談することができないので、買えずに帰ってきてしまいます。山+風の人たちが解散することも、「ねえお母さんヤバイ見て解散だって!」と言いたい。近所の酒屋に猫がいたことも、「ねえちょっといたさ、○○に猫!目の前にいるの!」と、家に電話をかけることがもうできない。家にかけるといつも、「ハイ、たぬき1号です」なんてふざけて出てくれた。もうかけても出ない。世界中のどこの電話にかけたって出ない。

死んだらどこに行くんだろう、と寝る前に毎晩考えている。朝まで眠れない日が多くて、夜中だけ台所でパタ、パタ、と鳴る不思議な音を聞いていると、母は台所にいるのかもしれないと思う。コーヒーを飲もうとしているのか、朝のトーストを焼こうとしているのか。

母はもう深呼吸ができるだろうか。走れるだろうか。自分の足で階段を上れるんだろうか。思うように自由に喋れるだろうか。そして大好きなお風呂にどぶんと浸かって、温まることができるんだろうか。昔みたいに、朝までぐっすりと眠って、起きたらバタバタと家中のゴミを片付けてくれるだろうか。

そしたら一緒にイオンに行って、服を見て、バッグや靴を見て、マックでサンデーのチョコを食べて、100円ショップを見て、化粧品を見て、いつものようにトイレットペーパーと箱のないティッシュペーパーを両手に提げて帰る。イオンカードの優待でこんなに安かった!と言って、明日も当然同じことができると疑いもなく、ゆっくり隣で眠りたい。そしたらわたしももう、目覚めなくていいと思っている。