夜中のひと匙

難病と双極性障害Ⅰ型のアラサー。死にかけてICUに収容されるも、しぶとく生き残る。30代で母を亡くし独りになる。拍手を暫定復活しました。お返事できるとは限りません、ご了承ください。

明日からまた次の現実が始まる

ブログ開設から15年近く(DUOブログ→ヤプログseesaa→現在と移転しております)、なぜか途中から、ブログには何かはっきりとした書きたいこと&長文になる話がある時にしか書かないようになっていましたが、変なこだわりを捨てて、これからはちょっとしたことでもブログに書こうかなと思いました。

なぜかというと、ツイッターは流れちゃうんですよね。もちろん遡れるんですけど、ブログより人目に付きやすいぶん控えめに書いてたりもしますし、そういうの勿体ないかなと思い直しまして、自分だけの空間であるブログの方にまた載っけていきたいなあと思ったわけです。

ツイッターはもちろん続けますし、あちらはあちらでコメントのやりとりが速くて簡単で凄くいいなと思います。こっちでは未だにどうやったらサイドバーに戻せるのか分からない拍手になっちゃいますが、どうぞよろしくお願いします。

『闘病記』の話。

わたしは闘病記はほとんど知らなくて、『1リットルの涙』くらいしか読んだことがないんですが、一つだけ何度も何度も読み返してる闘病記があって、それは奥山貴宏さんの『31歳ガン漂流』です。3巻あって、『32歳〜』『33歳〜』と、年齢の後ろのタイトルが変わります。肺癌で若くして亡くなったライター兼作家さんです。今からもう十五年近く前になりますかね。この方の闘病記(というジャンルに入るのか疑問なほどクールですが)は、御本人の意志で感情的な記述はあえて廃し(死にたくないとか悲しいとか辛いとか怖いとか)、非常に淡々と日々の治療内容や出来事を記してあります。そしてもとからプロの書き手だった人が書いているので、文章がうまく、リアルで面白いです。

癌患者だからといって入院中は点滴しながらテレビを見て〜というような生活は全く送らず、当時はまだ厄介だった無線ネット接続をして病院のベッド上でパソコンを使い、ライターの仕事をこなしながら頻繁に外出と外泊をし、ライブに行ったりツーリングに行ったりと、普通の生活を続けます。夜中に病院のロビーでプラモデルを作ったり。東京が舞台なのでモノに溢れた生活です。さすが読ませる力があって、面白いです(闘病記を『面白い』と言ったら不謹慎かもしれませんが、奥山さんなら笑ってくれそう)。

3巻ある、ということは4巻は出なかったということなのですが、奥山さんの時は止まってしまっても、こうしていつまでもどこかで誰かが読んでいるわけで、書き残す、公開する(もちろん出版できればなお良し)ということは、死後もずっと、形を変えて生き続けることなのだなあと思いました。なんか陳腐な感想で恥ずかしいですが、真剣に話そうとすると、陳腐というかありきたりな言葉になっちゃいますよね。

片付けの話。

病気が判明して、まず母親が取りかかったのは家中の不用品を捨てることでした。使っていない食器、本、などなど。

最低限度だけ残して、引越しでもするのかってくらい家の中がゴミ袋とダンボールだらけ。

ブッ○オフに売るとのことで、母親が持ってる本のほぼ全部を、箱詰めさせられてる時のわたしの気持ちが想像できるでしょうか。

死んだ後に面倒かけないようにと思ってるのは分かりますが、今まで集めてきた本を捨てる手伝いを朝からずっと続けていて、手に取る本はみんなそれぞれあちこち探し回って集めた思い出があり、その時の母の喜んでいた様子、買うか迷っていた顔などがよみがえり、それを全て娘に捨てさせるのかと思うと、これは優しさかもしれないけれど、甘く温かい優しさではないと感じました。

よく、思い出は物に宿るのではなく心のなかにありつづけるのだ、というようなことを言いますが、わたしは物にすがりたいこともあると思います。形のあるものは直接的に人を支える力があると思うのです。

わたしはダンボールに本を詰めながら、これは病と生きていく行為ではなく、死に向かって歩いていく行為だと感じました。

辛かったです。

もしその作業の残酷さが分からなかったら、その人はよほど幸せなんだと思います。

いっそ母親のものに埋もれたってかまわない。

この件を精神科で話したら、「でもそれは、杏紗さんのためにやってることなんじゃない?残されても、杏紗さんが片付けるのは大変でしょ?」と言われて、ちょっと、どう答えていいか分かりませんでした。そんなこと、分かってますよ。分かっているからお互いに辛いんじゃないですか。黙って立ち上がり、部屋に隠れて泣きました、わたしは。

これまでの日常から比べ物にならないくらい活動していて、微熱が十日くらい続いたり疲れすぎて泣いたりしています。日中、手が空いたら昼寝したいと思うけれど、でも寝たら時間を後悔するかもしれない。

相談相手もおらず、代わりに考えてくれる人もいない。わたしを側で励ましてくれる人もいない。

わたしは有り難い教えとか観念的なことを聞きたいわけじゃなくて、ただ、手を握って、側にいてほしいだけ。