夜中のひと匙

難病と双極性障害Ⅰ型のアラサー。死にかけてICUに収容されるも、しぶとく生き残る。30代で母を亡くし独りになる。拍手を暫定復活しました。お返事できるとは限りません、ご了承ください。

常にcoming soonでちっとも実現しないからまだ夢を見られる

ラノベのタイトル長いブームに乗ってみました(遅い)。

なんかブログを書こうとすると、ある程度長くて中身があって論理的におかしくないものをといつからか思ってしまって、変に書けずにいました。改行をどこでするかの問題に近い。こういうネットの横書き文章はサクサク改行して行間も空けるのが読みやすいと分かってはいるのですが、小学生の国語のように意味のある段落で云々とか考えてしまって、わたしのブログはひたすら改行せず続いていくのですね。漢数字と算用数字も色々ありますけど、そのへんは読みやすいようにと思っています。

いま病院の待合室にいて、あと2時間近くは呼ばれないだろうなと思うので、この記事はきっと投稿できると思います。最後に書きますね、結局待合室から投稿できたかどうかを('_')〜♪

ついったーにちょこっと書いたのですが、ここのところのわたしは浮世の義理でハンドメイドをやっております。小物とかアクセサリーを作って、友人のイベントを手伝っているという感じです。数年前からやっているんですが、精神的に安定しないので計画的に進めることができず、安定したと思って3〜4日作業していると(1日6時間程度、好きな時に休憩)、突然肉体的に具合が悪くなって、熱が出て十日くらい寝込むというパターンを繰り返しています。今も微熱が一週間近くなってきていて、作業は中断しているんですが、なかなか治らないです。難病の薬を飲むと少しラクになるんですが、よほどの時しか増量できないので我慢してます。

一応ボランティアみたいなものなので、経費とかは使えず自腹です(‘-‘)あーこのお金があったら安○ちゃんのアルバム買えた……と思ったりもしますが、やっぱり何かに参加できることは嬉しいし、お子様たちの楽しみに貢献できていると思えば、まあいいかなと思っています。……みたいにステキな気持ちでいられる時もありますが、まあ人間ですから、なんでこんなことをしてるんだろう……という感情の時もたまにはあります。でもトータルすればやっぱり人と繋がれること、小説もそうですが作品を見て喜んでもらえることはとても幸せなことなので、状況が続くかぎり参加していきたいと思っています。

幸せになってはいけない人っているのかなあ。

たとえば犯罪者とか?でもそれはどんな犯罪からアウトで、どこまでがセーフなんだろう。万引きはセーフとかあるのかな。

人を傷つけた人間には幸せになる資格がないとしたら、きっと全ての人類が幸せになれないけど、そこは傷つけた度合いで判断するのかな。

いままでの人生を振り返って、加害者だったことも被害者だったことも、誰しもあると思う。

それとも、生きている人間は全て、幸せになっていいのかな。

そういうのって誰が決めるのかなあ。

「幸せになっていい」というのは、ある意味「許される」ことだと思う。誰から許されるのか?被害者から?自分自身から?それとも神みたいなすべてを裁く存在から?

子持ちの友人(帰国子女、日本語80%くらい)が色々と悩んで出した結論を教えてくれたんですが、「自分の人生にあるのは来る、でもないのはない(原文ママ)」だそうで、聞いた瞬間なんか素直に受け入れられました。友人が言いたいのは「自分の人生に用意されているものは遅くなってもいずれ手に入るけど、用意されていないものはどうやっても手に入らない」ということだと思います。わたしも、きっとそうなんだろうなと思います。

『諦めるための言い訳』『努力しない奴の負け惜しみ』と思う人もいるかもしれません。でもどう頑張っても手に入らないものはあるし、人との関係には縁が存在すると思うし、その人がどういう範囲で生きる人間かっていうことも、ある程度は決まってるんじゃないかと思います。もちろん努力とか意志で変えられる部分はたくさんあって、でも根本的な、その人が生きている意味みたいなものは、変わらないような気がしています。

矛盾するようだけど、「絶対に夢は叶う」という言葉を、若い時は信じるべきだと思う。

十代なんて巨大ビルのトイレの個室にいるようなものだと思うんですよ。狭い個室の中は何もない。そこで信じた方向に向かってドアを開けるなり破るなり壁をよじ登るなりして廊下に出たら、何階に行くのかどの部屋に入るのか、屋上に行くのもビル自体を出ていくのも選べる。その時に、自分の選択と能力とその先の人生を信じられるから、夢を見られるんだと思う。それはすごく貴重な力だと思います。

もう三十代になって、意識しないうちに自分の人生の範囲が決まってきたように感じて、人生の数多あるジャンルの中の、わたしはこのパターンかあという感覚になりました。目指してここに来たわけじゃないけど、自然に流れたらこういう現状になって、それにはこれまでに知り合った人たちから紹介されたものや頼まれたことや経験したことが積み重なって、一般的なルートとは違うけど、わたしの人生ってこういう感じかなといまは思えています。理想はありますよ、夢みたいな理想の人生、そこではわたしアホみたいに幸せなんですけど、しょうがないですもんねえ。

病気が無ければ確実に違うと思います。通院や服薬の縛りがなければ日本中どこにでも行けるし、外国に住むこともできる。

でも不思議なことに、病気の無い自分は想像できないんですよね。

現在のわたしの考え方とか倫理や規範は、入院とか手術とか深夜のナースステーションでのやりとりとか、死ぬとか生き残るとか、そういうものから出来上がっているので、それを無くしたらもう別人ですよね。

なんというか「しょうがない」って良い言葉だと思いますよ。だいたいの事は「しょうがない」で諦めていける。人生しょうがないことばっかりで、たまにしょうがなくないから、なんとかやっていくんだと思う。

さて最後に「待合室で投稿できたのか?」の答えですが、「深夜二時、布団の中から投稿」が正解でした。珍しいことにあれからすぐ呼ばれまして、結局帰宅してポチポチ書き、いま投稿するところです。

難病のことは診察で色々あったのでまた別の記事で書きたいと思います。