夜中のひと匙

難病と双極性障害Ⅰ型のアラサー。死にかけてICUに収容されるも、しぶとく生き残る。30代で母を亡くし独りになる。拍手を暫定復活しました。お返事できるとは限りません、ご了承ください。

境界線の内側の「優しさ」

流行っているということで、パクチーラーメンを食べてみました。

輸入食品店で、百円以下で売っているインスタントラーメンです。なんと電子レンジで調理可能。もちろん鍋でも作れます。レンジで作って食べてみました。

チキンスープにレモンを搾ったような、爽やかな酸味。乾燥パクチーはそれほど癖もなく、葱のような感じで。

結論としてはとても美味しかったです。麺にもちもち感がないのは日本人としては残念ですが、あっさり爽やかスープにはあのくらいの細麺が合うのかも。癖が強いというパクチーも食べたことなかったんですが、あのくらいの風味なら全然平気でした。

パクチー入門編てところでしょうか。母親も食べましたが、また買ってきてくれと言ってました。

人気商品なので、輸入食品店ならどこにでもあると思います。ぜひお試しを。

少し前に精神的にすごく苦しい谷底にいて、こんなに苦しい、恐ろしい思いは今までしたことがなくて、どのくらいかって説明が難しいですが、たぶん家族が交通事故に遭ったからすぐ病院へ、覚悟して下さいって言われた瞬間のぞっとする感じ、血の気が引く感じ、不安と渦巻く恐ろしい想像にガクガクする思い、そんな感じがずーっと続くのです。こんな状態ではまともに生きていけないと思いました。とにかく恐怖の世界の中にいて、「怖い、怖い」と呟いて布団にくるまっていたのですが、誰が助けてくれるわけでもないし、こういう恐怖について母親に話すと鼻で笑われるか軽蔑されるので言えないし、どうしようもなく、一転して恐ろしい世界になった毎日を、ひたすら耐えていました。

ちょっとずつは良くなってきたんですが、思い出したくない恐怖に蓋をして見ないようにして平静なふりをしているだけなので、たまにその蓋が開きそうになります。

わたしの病気は全然寛解しません。将来どうするのか、年齢的にも差し迫ってきています。友達のやりがいある仕事の話、同僚との掛け合い話、聞いていて楽しくはありません。もしかしたらあなたの立場にわたしが立って、そんなわたしをあなたが羨ましく見ている可能性だってあったのに、なんで現実はわたしがあなたを見上げて、びちゃびちゃの水の中に立っているんだろう。わたしだって、そんな思いをしたことがない立場になって、配慮のない話し方をして、満足して笑っていたかった。そしてそれを当然のことだと、誰の人生にも当たり前に与えられる日常だと思って、明るく生きていたかった。

苦しみや悲しみを知っている人間はやさしく、深みのある人間になれる、なんて読んだことがありますが、深みなんてなくていいから、そこそこの数の人たちに好かれる程度に普通にやさしい人間であれば、楽しく幸せに生きられると思います。一定以上のやさしさや深みを必要とするのは、またその人も辛く悲しい状況の人なんです。そこまでじゃない人には、ある種の深み、やさしさは必要とされないんです。知らなくていい。だから知らなくても、満足に楽しく生きていけるんです。そしてその「やさしさ」は持っていなくても、「優しい」と言われることだってある。その世界では十分に優しいからです。だいたい、優しくなくたって愛してくれる人はごまんといます。

わたしの友達で、とても辛い闘病人生をおくっている人がいて、彼女の懐の深さ、大きな心にわたしは助けられたことがありますが、その人のその大きさ、深さは、きっと普通の生活をしている人には必要のないものなんだと思うのです。そこまで掘り下げた悲しみを持っていない人には、彼女のもつ心は大きすぎて、サイズが合わないからと手に取らないか、捨ててしまうかもしれないものなんです。そういうものなんだと思います。

悲しみ、苦しみ、困難、切なさ、それらをあまり知らないけれど、世間的にはとても幸せな境遇で生きている人がいます。確かにその人は人間の心にあまり興味がなく、深い話はできない人でしょう。でもそれがどうしたっていうことです。その人はたくさんの人に囲まれ、世間的に認められ、生き生きしているでしょう。人の悲しみや心があまり分からないからって、何も足を引っ張っていません。そりゃあわたしのような人間からすれば、この人には本当のところは通じないなと思ってしまいますが、世の中はそんな人間ばっかりじゃないし、むしろ苦しみや悲しみや障害に困難な生活をしているほうが少数派なのですから、わたしたちと通じ合えないより、健康的な普通の人たちと通じ合うほうが頻度が高く十分でしょう。

……まあそうはいっても、わたしは苦しみを知ってしまった側なので、そういう、人の心に興味がない、深く理解できない人間にならなくてよかった、とは正直思います。でも羨ましいことは確かだし、たとえばわたしが人の親だったとして、子供にどっちの道を選んでほしいかというと難しいですね。苦しみを知らず、満たされて並み以上の幸せを掴んで欲しいと思いつつ、スポットライトの当たらないところで苦しんでいる人の悲しみや痛みを知っている人間であってほしい。それは恵まれた人が本で読んだり話を聞いたりしただけじゃだめだと思います。それでは本当のところは分からないと思います。だとしたら何か不幸な体験をしなければならないわけで、それって進んですること?と思うと、そんなことを大切な人に勧めるの

もおかしいかなと思います。

与えられた境遇のなかで、人は分かり合える人を見つけていくわけですから、境遇を越えて理解しあうというのは難しいですね。誰も、もちろんわたしも、知らないことは理解できません。だけど自分の持っているものを見せるとき、誰もがこれを持てるわけではないということを忘れないようにしたいと思います。