夜中のひと匙

難病と双極性障害Ⅰ型のアラサー。死にかけてICUに収容されるも、しぶとく生き残る。30代で母を亡くし独りになる。拍手を暫定復活しました。お返事できるとは限りません、ご了承ください。

安心して死ぬには

30歳を越えて今、自分の人生に子供が欲しかったなあと思います。

病気のせいで、子供を持つことはかなり早い段階から諦めていました。

だから結婚を考えるのもやめました。わたしは相手に何も提供できないと思ったからです。世の中には病気であっても、子供が生めなくても結婚している女性がいますが、そういうのは一部の幸せな人だけで、わたしにはそんな恵まれた幸せは巡ってこないだろうと思ったからです。

20代の頃は強がっていたし、まだ本当に子供が欲しいと思わなかったからか、特に何も感じていませんでした。ただ30代になって、特に去年死にかけて、子供というものがいたらよかったなあ、と思うようになりました。

去年死にかけた体験から、人が死ぬときにどうやったら少しでも内心穏やかに、安心して死ぬことができるだろうと考えたとき、この世界に、自分の血を分けた者たちが引き続き残って生きていってくれるというのは、かなり慰めになるのではないかと思いました。

死ぬということは、強制的にこの世界から追い出されることです。慣れ親しんだこの地球上から出ていかなくてはならない。この世界は明日も続いていくはずなのに、自分はそこにいられない。

そんなとき、自分の子供や孫がいれば、ああ、わたしはいなくなるけど、この子たちがこの世界に残ってくれる。明日も明後日も、この親しんだ世界で変わらずに暮らしていく。わたしの血は、わたしが消えても変わらずにこの世界で続いていく。わたしはいなくなるけど、全てが消えるわけじゃなくて、子供のなかに、孫のなかに「わたし」は生きていて、引き続きこの世界で明日も明後日も…

そう思えたら、わたしは少しだけ安心して死ねると思うのです。

この地球上に遺伝子を残したい、という考え方ではなくて、この慣れ親しんだ世界から突然、無関係になることが怖いのです。

だから血縁の者たちが、明日も明後日も変わらずにここで暮らしていると思うことで、わたしも全てを消されるわけじゃないんだと、安心できるような気がします。

あとはもちろん、子供が可愛いなあと思う気持ちが心に生まれてきたという理由もあります。

「おかあさん」になりたかった。

だから健康な友人知人から、「結婚は選ばなかった、子供は持たない選択をした」と聞くと、いいなあ、選べて、と思ってしまいます。

わたしの生まれた家庭は幸せじゃありませんでしたから、いつからか、自分は仕事には生きないで、早く結婚しておかあさんになって、楽しく幸せな家庭をつくる、という夢を持っていました。

でもだんだん、わたしの夢は実現は無理なのだ、と凍みるように気付き始めました。

すれ違う親子連れ、街中で見る子供を叱るおかあさん、あの人たちと、わたしは何が違ったんだろう。なぜ、わたしはそれを手に入れられなかったんだろう。

神は越えられる試練しか与えない、というようなことを聞いたことがありますが、越えられるっていうか越えるしかないし…だって越えないでいるって、どういう状態ですか?病気を悲観して毎日うずくまっているとか?それじゃ食べていけないし、もっと惨めになります。

越えるしかない、もしくは越えないでいるって、本人の環境のせいもあるんじゃないでしょうか。たとえば両親揃っていて、さらにたとえば父親が医者だったりして、理解とお金があったとしたら、わたしは今みたいには頑張らなかったと思うし、自分の力だけでかき分けるように進もうとは思わなかったと思います。自分だけで調べて、考えて、体調が悪くてもバイトに行って、孤独だけど孤独がなんだよ、甘えるな!みたいな人生ではなかったと思います。両親に甘えて、援助してもらって、療養中ってことでのんびり穏やかに暮らしていたかもしれない。それでもいいんだよって言われて。でもそんな生活でも、周囲の力で「乗り越えている」と判定されるのかもしれませんね。

わたしはどんなシチュエーションで死ぬんだろう。

去年のショックで死にかけたときは、「えっ、まさかこれ、死ぬの?」しか考えられませんでした。そしてたった一人の顔しか浮かびませんでした。遠く離れている大親友の顔以外、もちろん親のことも、他の友人のことも、誰のことも考えなかった。申し訳ないけど、そういう瞬間に選別は行われるのでしょうね。そして誰に手を握られても、頼りたい気持ちも安心する気持ちも生まれなかった。もし愛する夫でもいて、手を握って「絶対大丈夫だ、心配するな」とでも言ってもらえたら、あの孤独に死と向き合って、じりじり距離と間合いをはかっているような乾いた冷たい気持ちは癒されたのかもしれません。

でもわたしの命はわたしのものです。誰に頼っても頼らなくても、手綱を取るのはわたしだけです。

そういう意味で、人間はやっぱり一人で死んでいくのではないでしょうか。死ぬ瞬間も、わたしは無理やり乗りきって耐えていきそうです。そういう性格なんでしょうね。