誰かが分かち合ってくれる
最近は遠藤周作を読んでいます。
遠藤周作はキリスト教の人なので、小説もほとんどキリスト教のことが出てきます。
悲しみを見ていた目、すべてを見ていた目というのがよく出てきます。
わたしが常々思っていることなのですが、例えば苦しみのひとつとして病気のお話をしますが、病気になったとき、スポットライトが当たる人と当たらない人がいますよね。
スポットライトが当たるというのは、有名人とか立場のある人、周りに人が多い人です。
たくさんの同情とお見舞いを頂いて、自分が苦しんでいることを、多くの人が知っている。
それが良いことだと言っているわけではないです。ちやほやされたい人がいる一方、病気を知られたくない人、そっとしておいてほしい人がたくさんいるのは分かっています。そういった個人の指向とは関係なく、スポットライトが当たるかどうかについてです。
スポットライトの当たらない人、例えば一般人、一人きりの人ですが、病気であることを誰にも知られることなく、同情の声もお見舞いもなく、一人きりで闘病している人がいます。
両者は同じ病気で苦しんでいるのに、一方はたくさんの人に囲まれ支えられ、一方は一人で孤独に耐えている。
このスポットライトが当たらない、一人きりで背負う孤独は、誰が報いてくれるのだろうと思うのです。
病気を知られたくないのに皆に知られて辛いとか、そっとしておいてもらえない有名人の辛さとか、スポットライトが当たる方にも色々あると思いますが、選択したわけではなく孤独な者の、誰も見ていない一人きりの苦しみは、誰も知らないまま終わるのだろうか。
たった一人きりで背負わされた苦しみは、永遠に誰も分かち合ってくれないのでしょうか?
そんなことを考えていた時、遠藤周作の世界が胸に響きました。
「悲しい目」「すべてを見ていた目」です。
孤独な苦しみを知っていてくれる、分かち合ってくれる存在、それを遠藤周作はキリスト教作家なのでイエスとして描きます。わたしは信者ではないのでそれがイエスかどうかは分かりませんが、そういった「見ていてくれる」存在は必ずいるのではないかと思っています。
まあ、無宗教なんですけど…
遠藤周作は難しいものも多いですが、わりと平易なものも多いです。キリスト教作家ですが、キリスト教こそが宗教だ、みたいな押し付けがないので、自然に日本人の感覚として神のいる世界を受け入れることができると思います。
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(*’ω’ノノ゙
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